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 「オーストリア式 個人三行広告」 オーストリアからのメール 夜が来る。良く寝れますか。

予め指定した「贈り物」

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贈り物を貰ったことがありますか。

贈り物(プレゼント)とは、通常、贈る人から贈られる人へと贈る物であることは言をまたないのですが、 面白いことに気が付いたのです。つまり、普通は贈る人が主体、贈られる人が客体という関係ですが、 それが逆になっているという話です。

感謝の気持ちを伝えるため、また贈った人、贈られた人が共に人生の途上での贈る贈られる喜びを共有し合うためにとか、 「贈り物には先ずは贈る人の思い、気持ち、心が込められているのが常識である」とわたしは思っていたのですが、 どうもこれは当たらない。逆説的ですが、贈り物を贈る人ではなく、贈られる人の思いが、希望が、期待、 要望等々が実は前以って込められているのが今は新しい常識らしいのです。これはわたしがオーストリアで体験、 目撃したことであります。全部が全部そうであるとは言えないでしょうが、そんなことがあるものかと思いを 新たにした次第です。

物が豊かにある、溢れている、そんな世界でのお話ということになるのでしょうか、 抗し難い時代の流れを反映しているのでしょうか。

人生、色々な機会に贈り物の授受が見られますが、卑近な例として以下、三つ挙げてみます。   

 

▼例、その一、

結婚式といった祝い事での贈り物

長い間付き合っていった、そして家にもよく来ていた知り合いの 若いお二人さんが漸く一緒に同じ屋根の下で、同じ部屋の中で生活することに踏ん切りが付いたようで、教会での結婚式、 そしてその後の結婚披露宴を何月何日に催すことと決め、その旨、親族、友人知人等、関係者一同宛に案内状というか、 招待状を正式に贈りました、いや、送りました。いや、考え様によっては案内状も贈り物の一種と言えるかもしれませんね。 贈られて嬉しいものかも、かも。

招待状を受け取った本人達(我々夫婦本人たちも含めて)は招待されたお返しにと、またお二人さんの門出を祝ってと、 贈り物を用意し持って行かねば、、、と意識的に思ったかどうかは分かりませんが、あたかも当然と言ったごとくに 今までの無意識が意識的に働き出し、さっそく贈り物探しに出掛けて行った筈です。先ずは頭の中で探して、でもどうも 埒が開かないと、一層のこと、お店に直接出向いて行って、その中で探してみようと相成った筈です。

お二人に贈ろうとする人、つまり贈り物をしようとする、その当事者はどのような思いの世界を通過するのでしょうか。 贈られる人、つまり受け取る人、お二人のことを思って色々と考慮するのに決まっているでしょうが、 それが一苦労であったり、それが楽しみであったり、若いお二人にとっては何が贈り物として適当か、 これからの生活に必要なものでも、、、、と考えはじめるのが普通、その適当なものと思われるものを探し 回ることが本当に楽しみ、喜びと映るか、どうなのか、それとも苦痛と映るのか、贈る側の人たちは どんな気持ちであるのか、それはそれぞれに実際に聞いてみないと分からない。

どれにしようか。どれが良いのか、ああ、簡単には決まらない。本当に困ったことだ。 時間と労力ばっかり取られてしまう。これが我が本音。贈り物探し、贈り物選びは時に誠に骨が折れる。 それでも贈られる人の喜ぶ姿を見てこちらも喜ぶ、喜ばして貰う、貰いたい、そんな思いもあってか 贈り物を特定化するのに時間と金を費やす。

贈り物を用意しておいてくれる(つまり、陳列しておいてくれる)お店の人にとってはお金の問題ではありませんよ、 などと言うに決まっている。高い、安いといった問題ではありませんよ、と。実は高いものを買って行って 貰いたいと密かに思っている、でも口に出して言うことはしない。こちらとしてはそんなに高い物を買いたいとは思わない。 と言って、一目で安い物と分かるものを買いたいという気持ちもどちらかというと無視しようとする。やはり、一目が、 いや人目が気になるのかも知れない。価格の問題でありません、心の問題ですよ、 と店の人は言って更に買う人の心の中にまでお邪魔しようとする。

たった一つの贈り物選択、決定にあれやこれやと色々と考えを巡らして「これ」が良いか、「それ」が良いか、 「あれ」にしようか、「どれ」にしようか、と取捨選択に正に人生そのもの、取捨選択の道をお店の中で多い時 には数時間歩き回ること、わたしたち夫婦も、ああ、もう二十年になるのか! その折には同じ境遇にあって、 結婚披露宴を催し、そこでは種種の贈り物を受けた立場だった。今度は我々も贈る立場に立ったのだ。 これは喜ばしき立場なのだろうか、どうなのか。

 

▼例、その二、

子供たち同士のお誕生日パーティといった、集まりでの贈り物

息子の誕生日にクラスの男の子ばっかり(まだ女の子には持てていないようだ、 親としては喜んで良いのか、悲しんで良いのか、判断に苦しむところだが、まあ、まだ、良いだろう)、 ワイワイがやがやとうるさいの何の、どうしてそうも大声をあげて喚かなければならないのか。 こっちの子は喧しい! ドイツ語の所為かとも思ってしまうこともあるが、、、つまりドイツ語 は大きな声で喋らないと通じないようになっている言語であると自分なりに体験的に納得して しまうところもあるのだが、とにかくワンサとやってきた。

子供たちはお呼ばれしたということで、当然ながら、と言って良いのかどうなのか、 ちょっと確信が持てませんが、「お誕生日おめでとう!」の贈り物を持参してくる。 家の息子はわたし同様、遠慮深く厚かましい質ではないので、またはそうすることでは ないと本能的に知っていたのか、「これ」が欲しい、「あれ」が欲しいので「あれ」を 「これ」を持って来てくれよな、とは前以て告げていなかったらしい。

当日、パーティの蓋を開けてみたところ、まったく同じLego(プラスチック製のブロック、 積み木遊び)が偶然にも、と言えようか、同じ体裁のものが2箱、

テーブルの上にお目見えした。全く同じもの二つも要らないよ、一つで良かったのに、 とは口に出さなかったようだ。持って来てくれた人の気持ちを尊重するのが当然であろう。

でも、同じものが二つあっては喜びも一つ、違うものが二つであれば喜びも二つとなっていたのに、 と本人が思っていたかどうかは不明。

わたし自身が昨年誕生日を迎えた時、わたしの義理の母は贈り物として「現金」を呉れた。 現金が好きだというわたしの心の中を知ってのことだったのかも知れないし、それとも上でも書いたように 贈り物選びに自分の貴重な時間を無駄には潰したくはないということで、実利的、効率的に思考した結果なのかもしれない。 自分で好きな物を買って、それで自分への贈り物としてくれ、と。あんた(わたしのこと)が喜ぶもの、 好きなものは何であるのか知らないから、現金を贈る事に決めた、となったのかも知れない。 誕生日に現金を贈り物として頂けるのもこのアイディア頂けると思った次第だ。

 

 ▼例、その三、

小学校の、担任の先生への贈り物

我が奥さん、クラスのPTA代表を務めて来たのだが、お世話になった先生に今年もその常として、 手配しなければならなかった。クラスの小学生一人一人の親御さん宛に要請の封筒を認め、贈る、 いや送ることになった。

曰く、今期が終了するに当たりまして、担任の先生様に我が子たちがお世話なったお礼の印に何かを買い、 贈りたいと存じます。就きましては小額の献金、寄付をお願い申し上げる次第でございます、と。

親御さん宛の文書を仕上げた後、次に、家の奥さん、何をしたかというと、 件(くだん)の担任の先生宅に直接電話を入れて尋ねている。当然だ、といった風に。

何が良いですか?」勿論、贈り物のこと。

今回は?」とは、言葉を継がなかったようだ。

「何々が欲しい」と女の先生。

良く聞こえない。勿論、わたしが電話口にいるわけではない。でも、聞こえてくるような気になる。 小さな声で伝えたらしい。

「そうですか。分かりました」

察するところ、どうも自宅で使える何らかの実用品のようだ。毎学期終了する度に学校の先生たちは 御父兄から贈り物を頂戴しているらしい。しかも、御自分が御指定する贈り物を。教師冥利に尽きると 言ったところでしょうか。

集まった贈り物用献金全部をそのまま欲しい、とは答えていなかったらしい。 現金受領は御法度となっているのかも知れない。

わたしは思った。毎学期、贈り物を貰える先生の御自宅には、もしかして、 電話のすぐ傍の壁には「贈り物入手予定の、長いリスト」のようなものがちゃんと見えるように、 聞かれたときにはすぐに答えられるように貼ってあるのではなかろうか。 その先生の御自宅を訪れたことはないので何とも言えないが、そんなリストを見出したとしても 不思議ではないだろうとわたしは思ったのだ。既に入手済みの品目にはチェックがしてあって、 一目で次の物を選べる手軽な便利なシステムになっているのだ、多分。

さて、何故贈り物なのでしょうか。贈られる人が贈る人に向かって「何々が欲しい!」と 露骨にも(わたしの感覚からすると、そんな風に思われる)伝えるとは!

贈られる人は贈る人が持って来る、または送ってくる贈り物が何であるかは事前には分からない、 いや贈り物が来るとは思ってもいなかった、だから、、、そんな意外性が贈り物というものだ、 とわたしは思っていたのでした。わたしは古い者なのでしょうか、そんな風に考えていたのでした。 だから、別の意味で、ちょっと意外性を味わいました。でも「郷に入っては郷に従え」とことわざでも言うことだし、 今年も例外なくわたしの誕生日が巡ってくることだし、この際、わたしも贈り物を指定しようかとてぐすねひいて 待っているのです。

「ねえ、何か欲しいものありますか?」

はい、車一台欲しい」そう言ってみようかとも思っているのです。

物を贈る喜び、贈られる喜びも物が溢れているように見える現代社会(といっても、 いわゆる先進諸国のことになるでしょうが)ではそんな喜びも希薄化しつつあり、あまり通用しなくなったようです。

物を贈るのではないんですよ。物はその表象にすぎない。物に込められた心、 思いを贈るんですよ。そんな声も聞こえてきそうだ。そう言われればそういうことだと改めて 贈り物の真意を悟る訳だが、心のこもった贈り物とは一体何になるのでしょうかね。 やはり贈り物の金額(価格)もその要素になっている。

いや、贈り物を受ける人のその思い、心がそのままその希望の贈り物にあるということで、 心のこもった贈り物と言えるのかも知れません。

実際的、現実的な生活に密着した考え方を基にして、贈って貰える時には贈って貰う、 贈って上げる。贈り物も予め何が来るか分かっていないといけないらしい。

日本では――、わたしの記憶が正しければ、ということになりますが、尤も今日では変わって きているのか知れませんね――、贈り物を受け取ったその場では開封せずに、 出席者(贈り主)が帰った後、一人で密かにニヤニヤしながら包装を解き、中身を確認し、 一人でビックリしたり、喜んだり、ガッカリしたり、そんな自分の反応を出席者(贈り主 )に見せることもなかった。ところが当地ではその場で包みを開けてしまうのが風習。何だろう、 何だろうと開けてみる。

実は中身は分かっているのです。中身を確認するために開封するのです。贈り主が贈り物を受けた人 の反応を見て楽しむ、喜ぶということも、贈り物を受けた人が如何に喜びを表現するのかも実は全て予定済み、 そんな風に贈り物の授受儀式は運ぶことになっているようです。要するに、そう、一つの儀式ですね。

贈り物にまつわる、ちょっとした英語的表現

どちらさまもどいつごもどうぞ

Linz, 25.November 200

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