眠れない夜と夜の狭間で、ああ、花粉症! オーストリアからのメール 運転免許証書換えの顛末(その


                              


 



   
オーストリアの、ある休日風景、または新聞配 達






 
 オーストリアに来て住むようになった。

 
 
もう何年になるだろう。


 
ある日のこと、、、、


 
休日とはどういうものか、自宅にて初めて感得した、と思われた。


 オーストリアはようやく春、確か5月であった。日によっては摂氏三十度を越し、春を通り越して真夏になってしまったかの陽気だった――、そう報道される地域もあったという。







  
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■ 休日は本当に静か、、、と
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 近所は静かで落ち着いたものだった。

 いつもの聞き慣れた音、通勤用の自家用車がエンジンを吹かしながら出発しようとする、例の音もなかった。

 聞えてくるのは小鳥の鳴き声だけ。


 日本では都会(川崎、多摩川を越えた住宅街)に住んでいたし、小鳥の鳴き声を聞くなどということなどは殆ど体験しなかった。騒音が余りにも多過ぎた。雀が時たまベランダにちょっとやって来てチョチョっと鳴いては直ぐに飛び立って行くのを見たことがあるが、感銘を受けるということでもなかった。



 オーストリアに来て小鳥の存在を初めて知った。そう言っても過言ではな い。よくよく見ると種類も違う。黒い、まるでカラスみたいだ、でも違う。 小柄だ。名前も知らない。お互い様。わたしもはじめてオーストリアに住むようになったのだから。


 「日本にだって小鳥はたくさんいますよ、森に、山に、田舎に行けば沢山いますよ、ご存じないのですか?」と指摘されるかもしれない。

 わたしは森に、山に、田舎に行ったことなど殆ど――なかった。そんな環境に住むようなこともなかった。縁が――なかった、と言えようか。



 もう一度、書こう。当地、外国、オーストリアにやって来て、日常生活の中での小鳥の存在を身近に知った次第だった。

 オーストリアは田舎か? ある意味では田舎と言えるかもしれない。森有り、山有り、田舎有りだ。つまり自然が一杯! と言っても良い。

 序ながら書いてしまうと、西洋人、例えば英国人の書いた物を読むと良く鳥のことやら、バードウオッチングとやらのことについて結構詳しく綴られていて、そういう箇所を読む度にその内容と自分とが一体化できないでいる のであった。同じような体験をすることで改めて読んでみると話の流れについて行ける自分を発見した。







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  ■ オーストリアの小鳥たちの喜びよう
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 祝日つまり休日だということでか、忙しげな活動がはたと止まっている。 隣近所、大声で話している声も聞えてこない。騒音がない。喜ばしいことだ。

 やはり休日は休日であって、全ては休むのが本筋だろう。オーストリアの小鳥たちがお互いに会話を交わしているのが良く聞こえるだけ。言わばオース トリア風ドイツ語で喋っているのだろうが、小鳥語のようでよく分からない。雰囲気としてはこんな風だろうか。

 「ねえ、ようやく5月、春になったのね」


 「そうね、待ちに待った春、良いですわね」


 「存分に楽しみましょう」


 「そうしまちょ」


 「春はわたしたちの季節ですものね。春を謳歌しましょう」


 「チッチッチッチ」」


 「チッチッチッチッチッチチャット」


 「ツッツッツー」

 5月の到来は小鳥たちだけでなく、実は当地の人間にとっても喜び。





 この静けさ――、

 う〜ん、静かで良いなあ、、、心までもが休まるようだ、、、、、、

 わたしはこの祝日、休日の静けさに満足の思いを寄せていた。



 と、と突然、

 家の外、居間のガラスドアは開け放って置いたのだが、そこからはこの静寂を思い切り破るかのような――大音響、と言っても、いや書いても間違ってはいない。

 何が起こったのか? 

 一瞬、この耳を疑った。



 ベランダに出た。中庭下の方に目をやると、ブラスバンドの楽隊がけたたましくも独自の演奏を始めたのだ。

 何らの予告もなしに、つまりわたしに関しては予告なしであった。

 缶空を片手に献金を集めている楽隊員も2、3人散らばっている。わたしがそうしたようにベランダの手摺から身を乗り出して演奏風景を眺めている下の階の住民に向かって、――― コインが 一枚、オトリとしてでも入っているのか、――― そんな 空き缶をブラス演奏に合わせて振りながら、寄付を集めているのだな、と分かった。







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  ■ 休日にも新聞配達されると思っていた
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 オーバーオーストリア州の州都であるリンツ市の郊外と言っても間違いで はない所に住む、我が家では当地発行の、所謂地元の新聞を購読している。

 毎朝、アパートの5階、エレベーターに乗って来た新聞配達人、持って来 た新聞をドアの足元に無造作に投げて、そそくさに去って行く。階段を駆け下りて行く足音がドアのこちら側、家の中、ベッドの中にまだ横たわっているわたしの耳元に響いてくる。 わたしは目覚めてしまっていたことになる。


 日本では所謂“賃貸マンション“というアパートに住んでいた。鋼鉄製のドアには新聞受け口があって、毎朝、配達人は新聞をその受け口に難儀そうにとにかく押し込んでいた。


 オーストリアでも鉄筋アパートに住むようになったが、我が家のドアはベニヤ板を二枚重ねたような厚さの木製(少々、物騒ではなかろうかと思われないこともないが)新聞受け口はない。鉄筋アパートの玄関を入った直ぐ脇 にはアパートの住人、一軒一軒用に郵便ポストが備え付けられている。が、 郵便屋さんではないから、新聞をポストの中に入れることはしないらしい。 というかそのポストには鍵が当然掛かっていて勝手に開けられないようになっている。


 どこのアパートも同じだと思うが、防犯も兼ねたインターフォンが付いていて中にいる人と会話が出来るようになっているし、アパートの下、ドア入 口前に来た人はその入口の鍵を持っていない限り、自分でドアを開けて中に入ることは出来ない。

 早朝には新聞配達人が新聞を配達するためにアパートの正面玄関のドアを開けて中に入ってくるが、この国に住み出したばかりの頃、不思議で仕方なかった。

 アパートの管理人及び住民のみがアパート正面玄関の鍵を持っているものと思っていたのが、その他にも玄関の鍵を持っている人が別にいるのだろうか? それとも早朝、新聞屋さんは住民の誰かの家の呼び鈴を押して、正面ドアを開けて貰っているのだろうか? それとも正面玄関用の鍵を持っている?

 用もないのに入ろうとする人もいる。そういうことでアパート関係者以外には共通の鍵は持たせないシステムになっているというのに、どうも例外があるようだ。そんな風に薄々思い至るのであった。



 とにかく、起床後、ドアーを開けて新聞を回収する。これ
わたしの朝一番の日課となっていた。

 ところが、日曜日や祝日になると新聞は来ない。拍子抜け。最初、不思議 で仕方なかった。新聞配達人が新聞を配達するのを忘れてしまったのではなかろうか、と電話を入れたことがあった。が、何度掛け直しても繋がらなかった、文字通り電話には誰も“出んわ”であった。諦めた。当時のわたし、 ドイツ語
電話会話が自信を持って出来るという訳でもなかったので、「電話に出んわで良かったのかも知れない。

 何十年と日本での習慣に慣れてしまった結果なのだろうが、当地に来てもそんな感覚が身に付いたまま暫くは抜けず、朝が定期的にやって来るが如く
曜日、休日に関係なく新聞を期待していた。






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  ■ 休日は休日????
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 オーストリアはキリスト教国。詳しくは知らないが、人口の85%以上程か、カトリック教徒とか。カトリックの教えに基づいて、日曜日は安息日、安息・休息しなければならない。そういう伝統が広く今日まで続いているらしい。

 だから新聞社も新聞を印刷してはいけない、印刷されない新聞は配達もされない。読むことも出来ない、ということになるか。


 一度、日曜でもない祝日でもないのに、新聞が配達されて来なかった。早々、我奥さん、電話を入れた。

 

  「いつ配達してもえるのですか?」


   「午後には配達出来るかと思います」


 
 夜になってもその日の新聞はとうとう来なかった。


 翌日、配達された来た新聞の第一面、片隅に小さくお詫びが印刷されてあった。新聞社の印刷機が故障――休日でもない
に休んでしまって(というの はわたしの追加コメントですが、、、)一部地域では新聞配達が出来なかった、と。ゴメンナサイ、とは何処を探しても書いてない。オレの所為ではない、と言いたい、というか何もお詫びは言わない、書かない。

 昨日の新聞が読めなかった奥さん、腹の虫が治まらないと言うのか、新聞取次店に文句を言ってやろうと早々電話を入れる。暫くは出んわの状態が続く。電話まで休んでしまっているかのようだ
った


 
 やっと出てきた。


 
 「昨日、午後には配達するとおっしゃったではないですか?!」


  「・・・・・」


 相手がどんな返事をしたかは知らない。でも容易に想像は出来る。

 
 「そんなことおっしゃられてもわたしの責任ではありませんよ」


  
 西洋人は「自分の責任ではない」と言える立場にあると考えるとそう言うのが好きのようだ。

 
 「わたしの担当ではない」


 まあ、担当がそれぞれ分かれていることは分かる。担当していないことについては関係ない、ということらしい
、そんな思考が徹底している。

 
 「昨日の新聞代は返してもらいますよ」と我奥さん。


  当然読めると思ってた新聞が来なかった。約束を守らないので少々“頭にきている”のであった。


 毎月の新聞代は銀行自動引き落としになっている。権利・義務の考えもはっきりしているというのか、権利は権利として主張しないと自動的に無視されてしまう。何も言わずに黙っていると納得した、現状を受け入れたと勝手に(?)解釈されてしまって、そのまま自動的に契約購読月額が引き落とされてしまうのだ。

 電話の相手側は同意したらしい。渋々か、それとも喜んでか、それとも無愛想に事実としてか、その顔を見ることは出来ないので分からないが、何となく分かりそうな気がする。とにかく、我奥さんの顔の方を見ると、満足そうであった。当然だ、と。






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  ■ 休日のバンド演奏
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 それはそうと、チロリアンハットを被ったオーストリアの緑色の制服のおっさん達だけの楽隊がまだ演奏中だ。


 祝日、読めない新聞を読もうとするような気持ちになるよりも、生の演奏を聞いて見たらどうですか、ということかもしれない。

 家族全員ベランダに出て来て、
手すりにおおいかぶさる様に身を乗り出して、下の中庭の音楽に目を耳を動員していた。
 <追記>

 

 く良く調べたら5月29日が今年はその日に該当していた。毎年、日日が変わるらしい。キリストが天に昇る、昇天する日が毎年違っているらしい。


 今年も休日の静けさをぶち破る、あのブラスバンド演奏が鳴り響き渡るだろうか。一度あったことは二度あるか。あのバンド演奏はキリストを天へと送る意味が
あったのだろうか。

 

どちらさまもどいつごもどうぞ

Linz,16. Mai 2003

  

 眠れない夜と夜の狭間で、ああ、花粉症! オーストリアからのメール 運転免許証書換えの顛末(その