強烈だ、と思った。
馴染めない臭いなので、吐き気を催しそうになった。
強烈な臭い、玉ねぎの腐った臭いとで形容すれば良いのか、
何と形容すれば、いやいや、この際、形容する必要もないだろう。
とにかく、不快さ、そして不愉快さが込み上げて来た。
リンツ市内、久しぶりにメインストリートにやって来て、ウィンドウショッピングをするかのように
散歩気分で歩いていたのだった。リンツ市街での休日を謳歌していた。
日中は買い物客やら、国内外からの観光客、旅行者たちもゆったりと気兼ねなく歩けるように配慮が行き
届いているかのようだ。所謂歩行者天国と言うわけではないが、なぜなら路面電車は走っているわ、
自動車もゆっくりと人々を轢かぬようにと慎重に転がるかのように進んで来るわ、去って行くわ、
であったから。雰囲気としてはゆったりとしていた。
そんな中、自転車を運転しながら、スキーの滑走、ダウンヒルの如く、
道行く人たちの間を巧みにすいすいと泳いで行くかのように、
臨機応変にスピード調整して通過して行くことも一つのテクニックとしてわたしには備わっていたが、
その日は気分転換に自転車から自主的に降り、自分の足で自転車を引きながらストリートを歩いていた。
人ごみに混じって目立たない通行人の一人となっていた。
自転車のハンドルを両腕でコントロールしながら、徒然に歩いていた。どこもかしこも石畳。コンクリート。
アスファルト。どこにも土が見えない。草も生えていない。生えようがない。大きなコンクリートの
植木鉢に生えた草木、植物がメインストリートのコンクリート世界に調和させるかのように要所要所に配置されていた。
ここ数日間は気分までもが曇り勝ちになってしまう曇り日が続いたかと思ったら、次の日は快晴で暑くなったり、
一、二日毎に冬の空が戻って来たり夏の空が戻って来たりと天候が目まぐるしく入れ替わるのであった。
そんな日々が続き、「Komisches
Wetter! 変な天候だな」と、これはわたしの口癖になってしまった。
何だかはっきりしない。予想がつかない。気紛れなオーストリアの空に向って、―――
いや詳しく言えば、リンツの空 ――― ぶつぶつと文句も出そうになる。
そうしたはっきりしない天候が続く中、その日は誠に気持ち良く晴れ渡った日となった。
抜けるような青空。気分爽快。半ズボンにスニーカー、半そでシャツ。午前中の太陽の照り返しを両目に受けながらも、
そう、吐きそうになった。
何だ、この臭い!
念のために断っておきますが、匂いではなかった。その辺に漂っていて圏内に偶々入って来てしまったので
運が悪かったのだとしか言いようがないのかも知れないが、とにかく鼻を突いた。
ところで、周りの人たちはどうなのか、と様子を観察してみた。どの表情も「別に」、
「別に」、「別に」といった風であった。臭気には鈍感なのだろうか? 何でもないよ、
といった風。無頓着そのもの。平穏そのものの世界が乱されることなくゆっくりと流れている。
今日は晴天なり、今日は晴天なり、明日はまた曇りなりかも、といった風。人々の表情は「我には臭わず、故に我関せず」
といった無感覚、無関心のそれであった。
どうもわたしだけが大いに拘り、その異様な臭いに反応しているだけのようだった。
こんなに不快な経験をまたもさせられてしまった! 鼻が打たれた。
こうして書いていながらも、あの時の臭いが蘇って来るかのようだ。
その日、夏の暑い盛りであった。太陽光線が眩しく、目を開けていられないほどであった。
西洋人がよくサングラスをしているのを見て、あれは気障に、伊達に掛けているのだろうと思い込んでいたわたしだったが、
本人たちはどうもそんな気持ちは全然持ち合わせていないらしい。こちらに住むにようになってからは、
そんなことが理解出来るようになった。あの青い目は太陽光線に負けてしまうらしい。
我が黒い目も確かに太陽光線に負けることもあったが、目を細めることでなんとか状況を乗り切っていったが。
ヨーロッパのほぼ中央に位置するオーストリアのショッピング通りでは
街頭スピーカーから素晴らしい音楽でも流されているのだろうと日本にいたときは想像していたが、
来て見たらそうではなかった。ワルツのテンポに合わせて人々が通りを歩いているのではとも思っていたが、
そうではなかった。そんな優雅さが街には溢れているのだろうと予想していたがそうではなかった。
サングラスを掛けたからといって視界が遮られるわけではなかっただろう。
それでも誰かが踏んづけてしまったのだろう。サングラスを掛けた買い物客、
ちょっと取り付く島のないような澄ましたご婦人がちょっと不注意にも踏んづけてしまったのだろうか。
ああ、そんな風景を想像するだけでも、というか、そんなことを想像するとますます忌々しくなる。
そのご婦人は如何なるお気持ちであったろう。残酷だ。他のことに気を取られて足元を気を付けていなかったのか、
だから糞付けてしまったのか。お気の毒に、と個人的にも憐憫の情を表したい思いもあったが、そのご婦人はその場にはいなかった。
それとも誰か別の人か、白い丸帽子を被り、ビールばっかり飲んでいるので腹が出っ張った作業員のおっさん、
仕事をしながらも缶ビールをちょびちょびと飲みながら、暑いことも手伝ってか、
午前中から酔っ払ってしまっていたのか、ストリートから店内の作業現場に向う途中、
重い踏み板を運んでいるとき、バランスを失い損ねたのか、重心を取り戻そうとしてちょっと千鳥足になったのか、
誰かが不用意にもバナナの皮でも捨てたのかと最初は思ったのかもしれないが、それを踏み付けてしまったのだ。
その痕跡が、軌跡が残っている。観察されるのだ。
何だろう、この異様な臭いは、と最初戸惑いながら歩を進めていたわたしだった。
何であるかも分からすに自転車を引きながらそのままスニーカーの、次の一歩が、その瞬間が、
わたしもおっとっとっと、と寸でのところで、しかも我が自転車のタイヤが更なる犠牲者の一人(?)
となるところでもあった。ある程度のスピードと弾みがついていたわたし所有の両足も、
そのモノをダイレクトに踏んづけるところであった。自転車のハンドルを握り締めた両腕を梃子のようにしてわたしは宙を舞い、
わたしは命拾いをしたのであった。
■ドイツのある街角で
ドイツのある街にいたときのことが思い出された。ビール樽を運搬する馬車がストリートを闊歩するのを見たことがある。
見たのはそうした風景だけでなく、その馬の尻から出て来た、いや出てきてしまっていた(過去形) ものが規則正しい距離を置いてとでも表現すればよいのか、ストリートの上に鎮座していたのを思い出さざるを得なかった。
ヨーロッパの街中に立つ。何処の国でも良い、と思う。いつも不思議に思っていたこと、いや、
憤慨していたこと、それは糞害とでも言うべきものであった。
なぜ持ち主はそれを直ぐに片付けて行かないのか。ドイツの街の、例の大きな塊は勿論、
持ち主はお馬様ご本人ということだが、自分の落し物を馬はうまく自分で片付けるようにうまく訓練はされていないだろう。
猫さんの場合だったか、後足で象徴的にも蹴散らかして始末した積もりでいるらしいが、馬の持ち主さんはどうなのか。
直ぐにも行動に移れないのだろうか。馬の持ち主さんもうまく訓練されていなかったのか。
キリスト教精神は何処へ行ってしまったのか、などと、いや、もしかしたらキリスト教精神とは関係ないのかもしれないけれども。
そう、ビール腹のちょび髭を生やした、ゲートル靴を履いたおっさんのことだ。
馬の落し物よりも、自分の胃の中に落とす方がもっと美味いことでしょう。
あなたが馬の所有者だとしたら、馬の落し物もあなたの所有に属するものではないのでしょうか。
いつまでも置きっぱなしにしないで片付けてくれ。余りにも大きく、目立ち、誰かさんが誤って糞付ける
(踏み付ける)という事態は起きなかったようだが、わたしは現場に居合わせてしばらく観察していた。
さて、リンツの街に戻ろう。
そこここに無造作に、小粒のジャガイモの如く、石畳の上に転がっているものがあらためて散見される。
好ましくない光景だ。それぞれのジャガイモは鈍器のようなもので圧力が加えられたように割れていたり、
擦りむいていたり、切断されていたり、表面が滑ったような跡も観察された。
4、5年前にも同じメインストリートに立っていた自分を思い出す。まるで昨日の出来事のよう。
当時、日本からオーストリアへと家族全員で飛んだ。飛んだ、と言っても我々一人一人に大人用、
子供用の羽が生えて鳥の如く飛んで行ったわけではない(でも、夢のようなストーリーとしては面白そう)。
オーストリアの飛行機が飛んで行ってくれた。
久しぶりにリンツのメインストリートに戻ってきていた。あの当時は何となく照れくさく、
恥ずかしいなあ、と思いながらも、迷子になっては困るということで皆んな、
お手手を繋いで野道を、ではなく、メインストリートを行けば、みんな、可愛い、
と当該の歌を声を出して歌ってはいなかったが、マイワイフは手を離してくれないから仕方なく、
諦めて、わたしは手を繋いだまま、恋人のごとく、行き交う人々の視線を気にしながら歩いていたことが思い出される。
子供たちは親の手を離れ、おやおや、わたしの思いを先に実行してしまっている。
子供たちは自分勝手に先へ先へと歩いて行ってしまい、我らが二人は相変わらず恋人のように見えたか
見えなかったかは知る由もないが、ゆっくりと子供たちの後から追い駆けてゆくみたいだったが、、、、、、
と、突然、子供たちは何か面白いものでも見つけたらしく、駆け足になってそっちの方へとすっ飛んで行く。
我々二人も、少なくもとわたしは子供たちの姿を見失わないようにと、実はこれはまたとないチャンスだ、
恥ずかしい手を離せると思って駆け出そうとすると、おっとどっこい、そう簡単には問屋が卸さないらしい、
マイワイフは手が離れそうになったので余計に力を入れて離さない、わたしとは一生、いや一緒に手を繋いだまま、
わたしと歩調を合わせるかのように、運動会での、二人お手手つないでの徒競走よろしく走り出す格好になるのであった。
子供たちはカラフルなおもちゃが縦長のウィンドウ一杯に飾ってある前に群がった。
お手手つないだお二人もショーウィンドウの前までやっと辿り着くところだった。
と、わたしの鼻は犬の如く敏感に感知した。匂う、ではなく臭う!
「クセエ、クセエナア!」
わたしはオーストリアでは忘れることにしていた日本語が吐き捨てるかのように口から出てしまった。
わが突然の発声がために通行人に影響が出るということはなかったが。
「あっ、危ない! 危ないよ!」
ここがオーストリアであることは完全に忘れてしまって、またも日本語が咄嗟に出て来てしまった。
危険回避の際には母国語が出てくるらしい。子供たちはショーウィンドウの、珍しいおもちゃに夢中、
見惚れてしまって、足元がお留守になっていた。それはそれは昔のこと、実際に我が靴底に直接洗礼
(先例?)を受けたこともあり、緊急に思い出し、目敏くそれを発見したのだ。発見しても勿論懐かしさは返ってこなかった、
嬉しくはなかった。
落し物。犬の落し物に決まっている。犬を連れた飼い主は一緒にメインストリートを散歩していたのだろう。そして多分、
犬の方はうちの子供たちと同様、わが道を自由に行きたかったのだろうか。飼い主はくびの鎖を外して、犬を自由にさせてあげた。
犬は飼い主を置いて、先へと急いだ。何処へと急いだのかは知らない。そこには犬はいなかった。犬の痕跡だけが残っていた。
ショーウィンドウ前の垂れ落としモノは、それとも飼い主のいない野良犬の仕業だったのだろうか。
野良犬の存在も考えられたが、多分それは有り得ない。ということは飼い主の訓練が行き届いていなかったとしか考えられない。
行儀の悪い犬のままに育てられてきてしまったのかもしれない。
わたしは犬が嫌いだ、と言いたいのではありません。憤慨しているのです。
糞害に憤慨しているのです。行儀の良い犬もいれば、行儀の悪い犬もいるのかも知れません。
わたしは犬を買ったことも飼ったこともないので、犬の買い主、飼い主としての立場というものがどういうものなのかは分かりませんが。
家の近く、ご近所では犬を飼っている人もいる。我が家の周囲にはたくさんの緑、芝生やら散歩道があるが、
そんなところには決まって犬さんたちの落し物が隠されているのです。自然の中ならば分からないだろう、
構わないだろうという飼い主の配慮が働いているのかもしれない。時に糞付けそうになり、不愉快な思いを新たにするのです。
■忠犬ハチ公
日本の、東京は渋谷、駅前には犬の銅像、忠犬ハチ公が無言で目の前を行き交う人々、
若者たちを見守っていますよね。人と会う約束の場を当のハチ公を目印にする人も多く、 実はわたしもその一人でしたが、群集から離れたところから犬さんの方へと近づいて行くと、
待ってたわよ、随分と待たせたわねえ、といった表情が飛び出してくる。あら、やだわ、人違いだった、 といったひとり言がわたしの耳に聞こえているかのような表情に変わったり、ハチ公を巡る人々の表情を観察しているといつも面白かった。
ハチ公はどうだったのだろう、人様に迷惑を掛けるようなことはしなかったに違いない。
■ヨーロッパ(またはイギリス)人の犬好き
ヨーロッパ人は犬が好きらしい。猫が好きな人もいるようですが、犬の方が圧倒的な人気を得ているよう。
でもああいう憤慨につながる糞害を目撃すると犬に対する好も減少してしまうものです。 勿論、本当に感心してしまう模範的な犬さんもいるようです。でも、わたしの少ない、
限られた個人的な体験からもヨーロッパの犬は誠に行儀が悪いのではなかろうかと断言したくなります。
例えば、イギリス人は愛犬家として評判ですが、愛犬家とは何か。犬さん自身には罪はないのかもしれませんが。
イギリスの歩道にはほとほと参った。ちょっと油断したら一発でやられてしまう。歩道にお金でも落ちていないかと宝探しの如く、
下を向いて歩いていたわたし。一発どころではない、二発、三発目が控えている。しまった!
と思ったらもう覆水盆に返らず、踏ん付けて(糞付けて)しまった! 踏ん付けてしまった感覚、
あの感触、ご経験のある方ならば良〜くご存知でしょう。
一旦やらかしてしまったら、そう簡単には解放されない。臭いの臭いの飛んで行け(転んで擦りむいて泣いている子供向けの、
「痛いの痛いの飛んで行け!」の真似)、とお呪いを掛けても飛んでは行かない。一層へばり付いていようとする。
大人には利かないお呪いのようです。
イギリスでもキリスト教の教えが徹底しているお国柄とわたしは先入観、または予備知識を以って
ヨーロッパに乗り込んできたのでしたが、この教えは犬さんたちまでには行き渡っていないようですし、
犬さんの保護者にもちゃんと行き渡っていないかのようでした。
まあ、数十年前のこと、その間にイギリス政府が教育費を出して教育をしたかどうか、詳しいことは知りませんが、
まるで歩道全体、どこであろうとも、我(犬さんのことです)がトイレといった風情。キリスト教精神はどこへ行ってしまったのか。
自分がやって貰いたくないことは人にもやらない、この精神はどこへ置き忘れてきてしまったのでしょうか。
ああ、そうか、街中、歩道に捨ててきていたのか!
■日本人としての誇り
そこへゆくとわたくし、生まれも育ちも日本ですが、同じ日本人であることを自分で褒めてしまいたくなるときもあります。
その発想は世界一流だと思うのです。子供たちが砂遊びで使う、あの小型スコップを子供たちだけに使わせておくのは勿体無い、
と犬さんにもというか、犬さんの親御さんにも使って頂くようにした。ビジネスにしてしまった。今では世界にも輸出しているのかな。
リンツ市内、日本よりも数段人通りの少ない、ゴミゴミしていない、
宣伝拡声器もがなりたてていない、話によると拡声器は禁止されているということだが、
リンツの中心街をゆったりとした気分で散歩するにも、日曜礼拝に出掛けて行くかのようにちゃんとした正装、
それが外出時の普段着なのかもしれませんが、サングラスを掛け、ハイヒールを履き、すらっと背筋の伸びた長身の、
東洋人のわたしから見てもカッコウいいなあと思わず見惚れてしまうスタイル、優雅に澄まして歩いている、
そんな痩せたオーストリアの女性が犬さん用のスコップを持って街中を散歩出来るものなのか、
外観を気にすることにおいても人一倍と思われるひとたち、ちょっと絵にはならない。故に、
スコップなしのメインストリート散歩となってしまっているのでしょう。 (Marchtrenk,
16.November 2003)
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