オーストリア人百人一周

 「自然が呼ぶ」とは言うけれど、(その  オーストリアからのメール 「オーストリア人の好きな、オーストリア 人百人」  

 

      

                        

 あたらしい迷信が広まりつつある?

 

       

   ■新聞記事(2003年11月14日付け)からの抜粋

          リンツ(オーストリア)発

        
Neuer Aberglaube um “Liebeskreuze“ 「愛の十字架」を巡る、新しい迷信

 巨大な、光り輝く木の十字架が個人宅の庭にいくつも出現するようになった。それは「悪に対する防波堤」、戦争、暴風雨、病気から自分たちを守り、そして「サタンを遠ざける」ためだ、と。カトリック教会や建築許可当局はこの新しい迷信にどう対処したら良いものかと頭を抱えている。

 カトリック教会はこの「愛の十字架」を拒絶、専門家たちはこの現象に中世への逆戻りを見ている。公的には否定的であっても、シュタイヤマルク州のある大工が仕事を請け負ったということで、十字架の“生産”は増え続けている。

 当地リンツの、カトリック教会関係の新聞はこの「愛の十字架」を巡る新しい‘流行’について仔細に報じている。そもそもの始まりは、2人のフランス人(女性)であった。二人が言うには、イエスキリストから「個人的な啓示」を幾つか受けたとのこと。この「愛の十字架」は正確に7メールと38センチメートの高さでなければならない――― つまり、738メートルの百分の一の高さ。この738メートというのはイエスが十字架に架かった場所、ゴルゴタの海抜を指す。この「愛の十字架」は白色の混じった青色、つまり薄水色でなければならないし、内側から光り輝くようにするか、「光の花飾り」で照明されなければならない。十字架の足元には花、出来ればエリカを置かなければならない。

 「十字架が何か宜しくない物となることはないでしょう」と、「愛の十字架」を信奉する人たちは言う。そうこうするうちに、件の大工さん、既に十字架、30本分を既にオーストリア全国に配達済み、とのこと。「商売上の理由からではなく、敬虔な事柄として請け負いました」と当人は言う。

 法律専門家によると、十字架には建設許可が必要とのこと。許可も得ずに違法に十字架を建てると当局からの「災い」を受けることになる。

――― 以上、私的翻訳転載終わり



 さて、わたしが住む所からそんなに遠くはない町にも当該の「愛の十字架」が建っているということで紹介記事(一部割愛)が以上のように当地の日刊紙に載っていました。





  
 ■迷信とは

 迷信、ご存知ですよね。信じますか、信じませんか、という質問も次に控えているのですが、どのようのものが迷信と言われるのでしょうか。

 手元にある日本語辞典「大辞林」をちょっと開けて、迷信という単語の意味を調べてみました。


 一、科学的根拠がなく、社会生活に支障を来たすことの多いとされる信仰。
    ト占、厄日、丙午(ひのえうま)に関する信仰など。

 二、誤って信じること



 


   
■占い

 占い。占いにも星占いとかトランプ占いとか、色々なものがあるようですが、占いは迷信でしょうか。

 肯定すれば、否定しようとする人が出てくるでしょう。否定すれば、肯定しようとする人も出てくるでしょう。 

  迷信だ! いや、迷信ではない! 
  迷信ではない? 迷信だ! 侃々諤々。

  科学的に証明されるものだ、云々、云々。


 例えば、Horoscope 星占い、占星術、そもそもこれはどうなのでしょう? 星の運行を見て、人間の運命や将来を占う術であるという、占星術はもともと西洋で発生したものと思われるのですが、――思われると確信なくここで記すのは、確認が取れていないからですが、――― 毎日発行されてくる新聞やら不定期に発刊されて来る地元情報誌などをみると、これが良く記事になっています。


 星の運行と人間の運命がつながっている?

 まさか! そんなこと有り得るのか?! と反応してしまうのがわたしですが、占星術専門家と言われる人もいるようですし、わたしみたいな素人からみると、読むと狐につままれたような気分になります。付いて行けない。

 「あなた、何にも分かっていないからですよ。勉強しなさい。」

 そうな風に言われてしまいそう。



 都会の真只中に住んでいては見ることも難しい星。ある日、九州の端、岬の海岸での夜、砂の上に寝転がって寝入るのを待っていたら、星の大群が今にも天から降り落ちてくるかのような、目の錯覚かともいうのでしょうか、いつも余りにも近くのモノしか見ていなかったので、視線が調整出来なかったのかも知れません。


 そんなにも近くに星の輝きを目撃して感動したことがありますが、その星の運行。夜空に星が瞬いているのを見ると何となくロマンチックな、ミステリアスな思いになるのはなぜでしょうか。天に瞬く星から自分はやって来たのかもしれない、などという思いを寄せる人もいないこともない。つまり、いる。何らかの関連性があるのかもしれません。


 オーストリアではつい数年前からは「月カレンダー」が大いに流行っています。前書きを読むと、ご自分の祖父からの言い伝えを本にしたということらしいですが、ベストセラーとなり、今日でも根強い人気があるようです。星占いと同様、月カレンダーが新聞・雑誌に良く載っています。


 ところで、中世以降のヨーロッパでの「魔女狩り」はどうですか? あれも迷信が極端に押し進められて行った結果でしょうか。アフリカには Witch doctor「まじない師」とかがいると聞いていますが、知らない人にとっては知っている人が時には驚異、いや脅威となるのでしょうか。

 中国から来ているという「風水」ですか、これはどうなのでしょうか? 日本でも結構流行っている、とか、じつはヨーロッパでも結構流行りだし人気がありますね。当たるも八卦、当たらぬも八卦、易はどうなのでしょうか。


 




   
■山頂に十字架を建てる理由は?

 さて、この十字架を自宅の庭に建てるという記事を読んで、思い出したことがあります。わたし自身が長年不思議に思っていたことでもありますが、オーストリアの山の写真を見ると、また実際にヘリコプターから頂上を撮影しているテレビ映像を偶々見ると、その頂上には殆どきまって十字架が建てられていることに気が付くのです。

 実際に自分で登って行って確かめてはいませんが、物の本を読むとオーストリアの最高峰、グロースグロックナー(標高3797m)の頂上、そこには十字架が建っている。

 わたしの素朴な疑問は、なぜ頂上に十字架が建っているのだろう? なぜ建てる(または、建てた)のだろう? 

  ドイツ語で Gipfelkreuz(N)、つまり Gipfel (M)頂上の Kreuz(N)十字架。

 たまたま知り合いの、お年を召したオーストリア人女性(70歳を越している)――、彼女は絵を好んで学び、また自分でも描く人ですが、彼女のアトリエを訪問した際、その壁に山の絵も掛かっていたのですが、その山の頂上にはやはり十字架が描かれていました。「なぜ山の上に十字架なのですか?」と聞いてみた所、「さあ、なぜでしょうかね?」と彼女も理由は答えられなかった。

 オーストリア独特の風習、それとも迷信と言えるものでしょうか。実際、山の上に建っているのだから、十字架を建てた、または建てる意味があるに違いない。山を所有しているオーストリア国当局(それともカトリック教会か?)からの建設許可が取れたから、あそこに建っているのでしょうね。


 日本の山の頂上に十字架が建っているのをわたしに限って言えば、見たことがありません。しかし、別のものが建っていたことを思い出す。登頂に成功したということで木の板に名前を書き付けて、それを頂上に置いて行った人がいたように覚えている。

 高い山の頂上にやって来る、ということはそう並大抵なことではない。そうした並大抵でないことを達成した証として、記念として、人はそこに何かを残して置きたいのかもしれない。後からやはり同じようなことをして到達し、そこに来てみれば、既に誰かがそこにやって来て、立った、建てたということが分かるのです。

 エベレスト山に最初に登った人、ニュージーランドの登山家、エドモンド・ヒラリー郷はエベレスト登頂に成功したということで、その頂上に何か記念になるようなこと、何か目印になるものでも置いてきたのでしょうか。

 女性で始めてエベレスト山登頂に成功した人は日本人(名前を失念してしまいました)ですが、その方は何か頂上で記念になるようなことをしたのでしょうか、何かを残してきたのでしょうか。

 昔、九州一周の旅をしていた時、普賢岳に登ったことがありましたが、その頂上には普賢岳と名前が書かれた標識が立っていたことを思い出します。いまもあるのでしょうかね。

 



   
■古い迷信、新しい迷信

 庭に十字架を建てるオーストリア人たちの肩を持つわけではありませんが、山頂に十字架を建てることとどう違うのでしょうか。庭に十字架を建てるという行為を新聞記者が“新しい”迷信と表現するならば、山頂に十字架を建てること、これは“古い”迷信ということになるのでしょうかね。


 

 







 

「自然が呼ぶ」とは言うけれど、(その  オーストリアからのメール 「オーストリア人の好きな、オーストリア 人百人」  

本日、2004年8月17日(火)、ラジオニュースによると、行政裁判所が判断を下した。「愛の十字架」は違法、と。