No.22 (つづき)
ネガホリックの真相とは?(その三)
■3.精神的にネガティブな人たち (Mental
Negaholics)
自分自身に対する最悪なる敵と言える。自分がしたことに「間違い」を見つけ出し、その「間違い」に拘り続ける。これからでも遅くはないのに、成功することもありうるのに、将来に向けての発展的な考え方がない。自分自身を常に批判するだけでなく、他の人の批判もする。つまり、自分自身に対する自信がない。だから、他人と自分とを常に比較し、自分自身に満足できない。
この人たちは人生を決して前向きに捉えない。人生を駆け巡って行くには行くのですが、常にバックミラーを眺めながら、といった風。過去に拘り続ける、しかも必要以上に拘る。人生を送りながらも、常に「あの時はああすればよかった」と言い続けている。自分自身を厳しく批判し断罪する。まだ何もしていないと言うのに批判、断定する、恰ももう失敗することに決めてしまったと言いたいかのように。やって見なければ結果は分からないではないのか!? ――― こう申し上げたいのだが、どうも分からない、らしい。実際、後ろ向きに歩いていると危険ですよね。
このタイプの人たちの思考方法は建設的というよりも、寧ろ破壊的。人生の途上では決断しなければならない問題が確かにいろいろとありますが、決断それ自体はコインを空中にパチンと弾き飛ばすように簡単なもの。コインを弾き飛ばすと、裏か表となって落ちて来ます。
例えば、の話ですが「“表”が二つになった」コインか、「“裏”が二つになった」コインを使うとして、空中にパチンと弾き飛ばした後、そのコインがどのように着地するかは以下の要因に拠って決まります。
i) 弾き飛ばす際、コインをどのように握っていたか
ii) 如何に力強く、そして高く弾き飛ばしたか
iii)固い表面に落下した時には何が起こるか
人生の途上で、何かについて考えるとか、何かに関して決断を下すとか、その度に、我々は頭の中でコインを空中に弾き飛ばしているとも言えます。物事をポジティブ(肯定的)に見るか、それともネガティブ(否定的)に見るか、じつは自分で決めているのですよね。
心の中の、その“内的な”コインをどう呼ぶかはあなた次第。実際、‘頭に描いた’コインというものは実物のコイン(硬貨)と違って、実は「表」も「裏」もない、いわば白紙状態と言えるのですよね。
そのコインを弾き飛ばした後、それにどういった名前を付けるか、それはあなた次第。あなたの自由です。つまり毎回毎回ネガティブ(否定的)な名前を付けていると、落下して来たときには「ネガティブな結果になりますように」と予め期待する癖がついてしまいます。心の中のコインが空中に弾き飛ばされ落ちて来て静止する前に、自分の心の中では既にネガティブな名前を前以て付けてしまっているといった塩梅。
自分自身が心の中のコインに対して責任を持たなければならないというのに、この点が理解出来ていないらしい。だから結局気が滅入ってしまったり、希望が感じられなくなったり、自分の無力さを感じることになる。実は自分でそういった気分になるように事前に舞台をセットしたということに気が付いてもいない。
精神的にネガティブな人の例としては、以下の四種があります。
1)絶え間なく批判する輩 (the Constant Critic)
2)他の人と比較する競争者 (the Comparing
Contestant)
3)過去に拘泥する欠点探しの専門家 (the
Retroactive Fault-finder)
4)早まった結論標榜主義者 (the Premature
Invalidator)
1)絶え間なく批判する輩
このタイプの批評家は自分自身の行動について、考え得るネガティブな面について色々と自分に向って思い起こさせる。自分がすることには長所もあれば短所もあるという事実を受け入れない。短所・弱点のみに意識を集中させる。そんなことをすれば気分が一層悪くなるというのにそうする。
例えば何かの試験を受けた後とか、就職の面接試験を受けた後では、失敗したことをくよくよしていても何の良いこともない。それよりも次回のチャンスに向けて準備した方がよっぽど自分のためにもなるのだが。
2)他の人と比較する競争者
人生における自分の成功というものを非現実的な基準に照らし合わせて比較する人たち。
このタイプの人たちは人生をどう見ているかというと、コンテスト(競争)と見ていて、コンテストには勝たなければならない(一番になること)と思っている。人生とは享受すべきものとは思えない人たちだ。だからトップになれないときには、惨めに感じる。人生とはレースの如きもので絶対に一番にならなければならないと考えている。一番でなければ気が済まない。人生というものをそこに参加して楽しむといった一つのイベントのようなものとは考えられない。
3)過去に拘泥する欠点探しの専門家
人生とは、このタイプの人たちにとって、バックミラーを覗き込むことのようだ。過去に何が起こったのか、そのことのみに執心し、これから先まだ人生はあるというのに、これからのことを計画しない。別言すれば、このタイプの人たちとは「あの時、ああすれば良かった」族とも言える。自分がすべきだったことに意を用いて、過ぎ去りし過去を「もしできることならば、、、、」といった願望で振り返り塗り替えようとする。
過去に何をやったというのでしょうかね。その当時の自分にとっては最善のことをやった、ということに気が付かない。当時やったことは最善ではなかった、と言うならば、当時そうしていなかった筈ですよね。
その当時から今日までに何か新しいことを学んだと言うならば、それを将来に向って計画することが出来るというのに、、、そうではないでしょうか。
4)早まった結論標榜主義者
このタイプの人たちは危険を回避することに長けている。何か新しいことでもやろうとする前から自分をそういうものだと自分をあきらめてしまっている。「何も危険を冒さなければ、何も得ることもない」(虎穴に入らずんば虎子を得ず)という諺を地で行く人たちのこと。
■4.ネガティブな言葉を吐く人たち(Negative Negaholics)
自分自身に、そして他の人に向ってもネガティブなことしか言いませんね。しかも、自分がそうしていることに殆ど気が付いていない。本人としてはモノゴトを正確に捉えているとでも思っている。実は自分の回りで現実に起こっていることについて歪んだ見方をしているだけのこと。
ネガティブな言葉を吐く人たちが良く使う方便の一つが、所謂「熊取り罠」作戦。助けを求めているくせに、誰かがこうしたらどうですかというアドバイスをすると、待っていましたと言わんばかりに、そのアドバイスを捉えて逆に批判を加える。つまり熊捕獲用の罠を自分で仕掛けて置いて、その罠の中に誰かが足を踏み入れることを求め、足を踏み入れた人を捕まえてしまうといった具合、まるで熊のように。(熊って、そんなことをやるのでしょうか―筆者)助けに出て来た人はフラストレーションに陥り、怒り出し、迷惑を被るのが関の山。ところがネガティブな言葉を発するご当人は援助の手(足かな?)を差し伸べてきた、その人を非難するといった次第、「自分には何もしてくれな〜い」と。どうなっているのでしょう。
このタイプの人とは四六時中、文句を垂れている人のことでもありまするが、アドバイスが欲しいのではなく、周りの人からの注目を惹こうとしているだけ。自分が言う文句に対して他から具体的な反応があったとしても、それには決して満足できない人でもありまする。
もう一つタイプがある。ネガティブな言葉を吐く人とは所謂典型的な「世の終わりを触れ回る」人でもある。つまりある状況に対してはポジティブな結果、またはネガティブ結果が予想されるという選択枝があったとしても、常にネガティブな方向性を選択する。――どうしようもない(どうしよう? どうしたらよいのでしょう。)
ネガティブな言葉を吐く人たちを避けて通ることは難しいものですね。具体的には以下の、4つのタイプがありまする。
1)熊罠仕掛け人(the Bear-trapper)
2)絶え間なく文句を言う人(the Constant complainer)
3)最悪の状況を予言する人(the Herald of Disaster)
4)陰気な運命論者(the Gloom and Doomer)
1)熊罠仕掛け人(the Bear-trapper)
助けを求めるのだが、そのくせ助けがやってくるそれを拒絶する、良くはないとか上手く行かないだろうとかそんな理由を付ける。何故熊の罠なのかというと、助けを求める本人が助けにやって来た人を非難するから。自分の問題を解決できるほど良い解決案を持って来なかった、と。こういったタイプの人を助けようと何をしようともあなたはその人の問題故に非難される。熊罠仕掛け人に会ったならば、どうするか。森の中で実際の熊に会った時に取る作戦と同じだ。その人を中心に大きな円を描いてどんなことがあっても近づかない、避ける、これだ。
2)絶え間なく文句を言う人 (the Constant
complainer)
モノゴトに間違いのみを見出すだけで、建設的なアイデアが出ることはまれ。絶え間なく文句を言う人はいつも観客を探し求めている。特殊なフィルターが備わっていて、ポジティブなアイデアに耳を傾けるとか認めるとか、そういうことがないようにしているようだ。そのくせ自分が好きでないことに文句を言い続ける。このタイプの人には反応しない方が良い。何らかの解決案を求めていると思
われるかもしれないが、そうではない。解決案を受け入れるならば、文句を言うこともない筈。
こうしたらどうか、といったような提案をすると、どう答えが返ってくるか。「うん、でも、、、」こういう人たちに答えないでいるということは難しい。助けが欲しいかのように文句を言い続ける。でも自分が置かれている状況について余りにもネガティブに考えているのでどんなに良いアイデアでも拒絶する。こ
ういう人たちに対してはどう接するのが賢いやり方か。上記の熊罠仕掛け人に対するときにするのとほぼ同じですね。彼等たちの文句には耳を傾けない。それでも文句を言うことを止めない
でしょうが、少なくともあなたとしては文句を聞かずに済む。
3)最悪の状況を予言する人 (the Herald of
Disaster)
最悪な状況になるのを期待する人たち。あることに関してちょっとした情報を得たと思ったら、それを仔細にチェックすることもなく、最もネガティブな結論へと飛び付く。パニック状態になりやすく、ひどく興奮してヒステリーに近い状態になる。似非科学者とかは典型的な例。
4)陰気な運命論者 (the Gloom and Doomer)
上の最悪の状況を予言する人に似ている。計画をチェックし、それが上手く行くかも調べないで、最悪な状態になると考える。勿論、最悪の結果を
予想し持ってくる。考え方が元々間違っているので、自分が予想したとおりの惨めな結末を知ることになる。全く別の姿勢で問題に当たったならば全く逆のことが起こり得ることもあり得るというのに。
分からないらしい。
さて、まとめてみましょうか。
自分自身を、また他の人をへこますようなことをすれば、あなたはネガホリック。
モノゴトには色々と関連する事項、要素があるし、それらに対する自分の思いもポジティブであればネガティブなものもある筈だが、それら全てに渡って比較検討評価を下す代わりに、自分の考えに対して自動的にネガティブに反応してしまうならば、あなたはネガホリック。
自分自身に向ってネガティブな行動を取って、例の慣れた轍に嵌まり込んでしまい、そこから出て来ようと努力しないならば、あなたはネガホリック。
自分の姿勢は自分自身が決めるというのに、自分の人生をネガティブな姿勢で貫かれるようにしてしまうならば、あなたはネガホリック。
実際、誰もが時にはネガホリックになる。でも生きて行く上で間違いをするということと、人生そのものを間違いと看做して生きることとは大違い。
大きな違いは何かというと、ネガホリックに生きることよりも、ポジティブホリックに生きることの方が重要だということ。人生は一回限り、どのように生きるかはあなた次第、あなたしか決められない。
■結論:ポジティブに決める方が効果的というもの
人生途上での決断はどんなものであれ、ポジティブなものか、ネガティブなものかの、どちらかになる。あることをやるのか、やらないのか、といった二者択一。他の人に対するあなたの判断もポジティブにもなればネガティブにもなる。その人のやっていることについて、またはやっていないことについて、あなたはポジティブに
も、ネガティブにも指摘出来る。
生きて行く上で、これからあなたがしようとすることに対してポジティブな決定をすること、また他の人についてポジティブなフィードバックを返すこと――― これらはネガティブなものと比べてみるとより効果的と言えます。
ポジティブな面に焦点を合わせれば人間の行動は変えられる。
起こって欲しいことを補強するような、「何かをする」といった<決定>の方が、自分が「することになっている、またはすることになっていない」ことを常に思い出させる
<決定>よりもベターと言えます。
「何かをする」と決めたならば、自分を行動へと動機付けしていることになるのですが、
「何かをする」ことでその何かを達成しようとしているといった満足感が得られるのです。ある方向へと動きだしているので目標も自分で見ることも測ることも出来ます。
一方、「何かをしない」と決めたときにはネガティブに考えている自分を見出すことだし、自分自身をネガティブに扱っていることになります。
例えば、
(1)「自分はタバコを吸わないことにする」
(2)「自分は毎日タバコなしで生きて行く」
上の二つの宣言文の間には微妙な違いしかありませんが、一番目の宣言文は自分自身を批判し罰している。タバコを吸いたいという欲求に囚われやすい。二番目の宣言文ではどのくらいタバコなしでやって来たのかと自分を褒めているし、そうしたいとする欲求を一日が巡って来る度に強めている。
他の人に向って何かを頼む時には、ポジティブなお願の方がネガティブなお願いよりも効果的です。
あなたがやっていることについて誰かが批判したらあなたはポジティブに反応しますか。
自分の子供に何々をしないようにと言う時、子供はどう反応を示すでしょうか。普通、言われたことを構わずにやることで反応を示す筈です。
誰かにやって貰いたいことを伝えるときには、そのことを具体的にはっきりと伝えなければなりません。「部屋を片付けなさい」はポジティブな指示と言えるかもしれませんが、ティーネージャーや小さな子供たちにとっては概略的過ぎます。「服をタンスの中にしまいなさい」「本は机の上にきちんと置きなさい」「床に散らかっているおもちゃを片付けなさい」―――これらは具体的で明確なポジティブな伝言となっています。
ネガティブな伝言というものは大まかなものになりやすい。「自分のお部屋でしょう、何とかできないの?」「あなたの部屋は見るに耐えないわね」―――こうした言葉はポジティブな行動を殆ど起こしません。ネガティブなコメントはまたその人のネガティブな自画像を強める傾向があり、最終的にはネガティブに実現する予言が引き出されることになります。
誰か他の人に対するあなたの指摘がポジティブであればある程、またその人の長所に焦点を合わせれば合わせるほど、その人は自分自身のことをよりいっそうポジティブに感じるものです。
長所に焦点を合わせることで良い面を引き出せるようになります。心理学者や教育者たちはこれを「ポジティブな補強作用」と呼んでいます。試して見れば自分でも分かるでしょう。ネガティブであるよりもポジティブである方が人生では普通報われることが多いものです。
[あなたは地の塩となりなさい ] 聖書、マタイ伝
■大人のメルヒェン 「二匹のカエル」
夕映えの中、二匹のカエルが田舎の道を仲良く一緒に帰るところであった。お互いに語り合っている。
「ねえ、君」一匹が口を開く。
「少なくとも一度だけでも良いから、たくさんのミルクを飲んでみたいと思っているんだ。これがぼくの願望中の願望だよ」
「そうかい。はぼくもそうしたいと思っている。ぼくの大きな願望だ 」
もう一匹が答えた。
二匹はゆっくりと先へと進んで行く。
と、ある農家の前にやって来た。二匹のカエルはそこに何を見たのか。戸の前には新鮮なミルクが入った集配用のミルク缶が二本、置いてあった。
「ほらッ!」一方が大声を上げた。「天はぼくたちの願望を聞き入れ満たしてくれたんだ。それ急げ。缶の中に飛び込め。ぼくも別の方に飛び込むから。ミルクを飲むんだ!」
二匹のカエルはそれぞれ、缶の中へと飛び込み、ミルクをガツガツと飲み始めた。飲んで飲んで飲み捲くった。もう充分に飲んだと思えた。
一方が相手を呼んだ。 「もう充分に飲んだ。もう飲むのを止めるのが良いだろう。でもこの缶から出れない。ねえ、どうしよう?」
「ぼくも充分飲んだよ」もう一匹が答えた。「ぼくも缶から這い出れないよ。ミルクが減るように更に飲み続けるしかないな」
二匹は更に飲み続けた。飲んで飲んで飲み捲くった。
一方がまた口を開いた。 「ねえ、もうこれ以上は本当に飲めないよ。溺れてしまう!」
「ぶつぶつ言うなよ!」もう一方が怒って答えた。「出来る限り飲んでしまえ!」
二匹は改めてミルクを飲み始めた。
一方がまたも相手に向って叫んだ。 「ああ、もうこれ以上は飲めない。もう
ぼくは止めるよ、、、じゃあ、頑張って。」
「ぼくは止めないぞ」相手が怒鳴った。
そして静かになった。夜の帳が下りた。
翌日、太陽が昇った。
太陽はそこに何を見たのか。
二本のミルク缶が仲良くそこには並んでいた。
一方のミルク缶の中、そこにはミルクの上に腹を上にした、死んだカエルが浮かんでいた。
別のミルク缶にはバターの一片が浮かんでいた。
そしてそのバターの上には喜びの瞬きをしながら、もう一匹のカエルが座っていた。
おわり (^o^)
▼編集後記▼
なぜ、「頑張っている人」ほど、うまくいかないのか?
パーソナルブランディング 最強のビジネスツール「自分ブランド」を作り出す
第8の習慣
「効果」から「偉大」へ
Marchtrenk,
23.Jänner 200